恵みの力

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恵みは私たちの心に働いて、大きな力を発揮します!٩( ‘ω’ )و

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【ノート】
恵みという言葉は原語のギリシャ語で“Karis”だ。カリスは新約聖書に150回も登場する。非常に多義的な言葉だ。カリスは、好意、喜び、美しさ、魅力、感謝、神の憐れみといった意味がある。すべて良い意味。聖書では、特に恵みは働きなしに無償で与えられるものだ。恵みが与えられるのは、私たちに何か優れた点があるからではない。神が私たちを愛してくださっているので一方的に恵みを与えてくださる。恵みは神の愛のしるしなのだ。神が何ものよりも優れておられるのだ。恵みは私たちの心に影響を与える形で働く。恵みはただ主イエス・キリストを通してのみもたらされる。イエス・キリストは恵みの源だ。Ⅰペトロ5:10。パウロ書簡では書簡の始めと結びに、主イエス・キリストからの恵みがあるようにという言葉がたいてい入っている。イエス・キリストと恵みは切っても切り離せない。そして、イエス・キリストは恵みをこの世にもたらすために来られた。ヨハネ1:14-17。恵みの上にさらに恵みをと書いてある。あなたがクリスチャンであれば、すでに恵みを受けている。しかし、今よりももっと恵みを、さらに恵みを受けることができるのだ。

主イエス・キリストが私たちに与えてくださる恵み、それは、何だかありがたいもので、すばらしいもののようだ。しかし、具体的に恵みは私たちに何をもたらすのだろうか。恵みにいろんな意味がありすぎてなんだか漠然としてよくわからない!せっかく主イエス・キリストから良いものを受け取っているのに、その価値がわからないようでは、豚に真珠になってしまう!あるいは実際には神からの恵みを受けているのに、自分自身の力であるかのように高ぶってしまうかもしれない!そんなことがあってはならない。Ⅱコリント6:1。バルナバは神の恵みがどういうものであるかをよく知っていた。使徒11:23。バルナバはアンティオキア教会に神の恵みが働いているしるしを見ることができた。恵みはどんな力があり、どんなふうに働くのか?それ知ることで、主イエス・キリストに対する感謝と賛美がわいてくる。恵みをますます求めるようになる。恵みを生かしていくことができるようになる。

第一に、恵みには人を罪から救う力がある。恵みによらなければ私たちは絶対に救われない。多くの救い、変えられた人生の証しがあるところには神の恵みが活発に働いている。
イエス・キリストを信じてクリスチャンになる人は、天地万物の前から選ばれている人だ。何によって選ばれているのか?恵みだ。ローマ11:5。永遠の昔、神の御計画の中で、恵みは私たちに与えられていた。Ⅱテモテ1:9-10。クリスチャンは恵み、つまり神の好意によって永遠の昔に選ばれたのだ。それであれば、行いは全く関係ない。
人を救いに導くのも神の恵みだ。生まれながらの人間というのは、頑なで、自分から神を探し求める、悔い改めるということはない。神の恵みが人の心の中で働くことによって悔い改めることができる。テトス2:11-13。神の恵みが人の心の中で働くことで、人は初めて悔い改めてイエス・キリストを信じるようになる。そして、信じて救われた後は、恵みによって信仰が成長するようにもなる。恵みがあれば、私たちは自分の意思の力では難しいことができる。悪い習慣を断ち切ることができる。人をゆるすことができるようになる。
そして、恵みにはそれ自体にあらゆる罪から私たちを救う力がある。神の恵みは私たちを義とする。ローマ3:24。しかし、人間はこう考える。義とするといっても、さすがに罪を犯しすぎた人は無理ではないか?その人が親不孝者、盗みを働いた人、暴力をふるう人、麻薬中毒者、極悪非道の殺人鬼であっても義とされるのか?その通り。ローマ5:15-16。恵みの方が罪よりも圧倒的に強い!どんなに多くの罪があっても、その人は神の恵みで義とされる!そして、心配しなくても、神の恵みで義とされた人は変えられる。心砕かれて別人のようになる。実際に別人だ。新しく創造された人だからだ。多くの罪を犯した人ほど、大きく変わることが期待できる。多くの罪を赦された人の方が、より大きな愛でイエス様を愛するようになるからだ。ハレルヤ!
「この人が変わるには神の恵みなしにはありえない」という人が周りにいるだろうか?それであれば、その人については神の恵みで、より大きな期待をいだくことができる。「この人が救われたらどれくらい変えられるだろうか!?」そういう期待感と祈りをもって、神の恵みがその人に臨むようにと、人々の救いのために熱心にとりなして祈ろう。

第二に、恵みには神のために多くの働きができるようにする力がある。聖書の人物の中で、最も世界宣教に用いられた人は誰か?おそらくは多くの人が使徒パウロをあげるだろう。なぜなら、パウロ自身が「私がナンバーワンだ」と言っているからだ。「自分で自分が一番だというなんて、なんという自信家だ」と思うか?ただパウロは私がナンバーワンとする中でも、実際に働いたのは自分ではないと謙遜に言っている。Ⅰコリント15:10。パウロはほかの使徒たちよりも多くの働きができた秘訣をさらっと言っている。神の恵みだ。パウロではなく、神の恵みが働いていた。パウロを救いに導いた神の恵みが、そのままパウロの宣教でも働いた。パウロが絶えず福音を宣べ伝え続けたこと、危険を顧みずにあちこちに宣教に行ったことについて、神の恵みが働いた結果だった。外面的にはパウロが一生懸命やったとしか思えないが、実は神の恵みがパウロと共に、パウロの中で働いていた。神のために誰よりも多くの働きがしたいか?それなら神の恵みを豊かに受ければよい。

神の恵みは具体的にどう働いたのだろうか?確実に言えるのは二つ。パウロを養い、強くした。恵みには養う力がある。肉体を養うのも神の恵みによるものだ。使徒14:17。自然や食べ物も神の恵みによるものなのだ。肉体を養う恵みはすべての人に与えられる。それで一般恩寵と言われることもある。心を養う恵みはクリスチャンにのみ与えられる特別恩寵だ。ヘブライ13:9。食べ物では心を養えない。特別恩寵たる恵みが心を養い、強くする。恵みによって強くなった人は神のために多くの働きをすることができる。Ⅱテモテ2:1-3。ここでいう恵みによって得られる強さは肉体的な強さではない。キリストの兵士として霊的戦いに勝利するための霊的な強さ、逆境に打ち勝つ精神的強さだ。恵みによって私たちはタフになることができる。パウロはタフだったので過酷な宣教にも耐えて多くの働きができたのだ。

もう一つは、神の恵みによってパウロに賜物が与えられた。賜物は神の恵みによって与えられる。賜物自体が原語のギリシャ語では、カリスと似たカリスマであって、カリスマのそのままの意味としては神の好意による贈り物だ。賜物は福音宣教をする上で大いに役に立つ。私たちは神からどのような賜物が与えられているかを知り、それを生かしていくことが求められる。ローマ12:6-8。パウロが多くの働きをすることができたのは、多くの賜物が与えられていたからだろう。私たちは現在各々に与えられた分に応じて、それを生かして、神の栄光を現そう。そうすれば神はさらに賜物を与えてもっと用いてくださるようになるだろう。
自分の力で神の栄光を現すことは不可能だ。そんなことをすれば疲れ果ててしまうだけだ。仮に実を結ぶように見えたところでそれは神の栄光にはならず自分の栄光になってしまう。そして、試みのときにその実は全部吹き飛んでしまうだろう。神の恵みによってのみ神の働きは可能であり、恵みによるなら、多くの働きが可能となる。

人々の救いも、信仰の成長も、神のための奉仕もすべて、神の恵みによる。それでは、私たちはどうすれば神の恵みを豊かに受けることができるのか?
第一に、謙遜。神が好んで恵みを注いでくださるのは謙遜な人だ。ヤコブ4:6。謙遜というのは、神がご覧になるように自分をありのままに見ることができる人のことだ。つまり、自分の罪深さと無力さをありのままに直視する人。そういう人が恵みを得ることができる。

第二に、大胆に求める。恵みを求めるには恵みの御座に近づかなければならない。ヘブライ4:16。私たちは祈りによって恵みの御座に近づく。恵みは祈り求めれば得ることができる。断食祈祷をするのもよいだろう。パウロはいつも恵みを求めて祈っていたからだろう。あるとき主から「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われた。あまりにもいつも恵みを求めて祈りまくっていたので、もうそのくらいで十分だと神に言わしめた。私たちの恵みは十分だろうか?神から「十分」と言われるまでは十分ではないだろう。恵みの上にさらに恵みを受けたという御言葉の通り、さらなる恵みを求めるべきだろう。

第三に、信仰。神の恵みは、信仰によっていただくものだ。信仰が恵みを受けるための鍵なのだ。ローマ5:2。「恵みに信仰によって導き入れられた。」信仰を使って、恵みを獲得しよう。信仰は望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認するもの。祈り求めるものをすでに得られたと信じるもの。神が与えてくださるその最初の兆候をつかみ、確信を深めることができるようにするものだ。

第四に、恵みの御言葉。使徒20:32。恵みの御言葉は信徒たちを造り上げる。私たちにとってそれは聖書だ。聖書を読もう。何度も読み、黙想しよう。そうすれば、神は御言葉を通して、私たちの心に恵みをお与えになる。また、聖書のメッセージを聞こう。このメッセージを聞いている間にもあなたに恵みが与えられていると信じる。そして、私たちがふだんからコミュニケーションで使う言葉も恵みの言葉にするとよい。そうすれば、ほかの人にも恵みを伝播できる。エフェソ4:29。恵みが耳から入り、口から出るようにもなれば、私たちは恵みのよいサイクルの中にいるのだ。

第五に、ほかの人から受け取る。神の恵みを受けている人から神の恵みを受けることができる。これは先にあげた恵みの言葉を語るのを聞くことも含まれるが、ほかにもある。Ⅰテモテ4:14。ここでは特に按手祈りと預言によって恵みが与えられている。按手祈りは賜物をほかの人にシェアする上でよく使われる祈りであり、預言は賜物を活性化させる上に有益だ。伝道集会やリバイバル集会に出席して、誰かから手をおいて祈ってもらったときに賜物を受け取るケースはけっこうある。具体的に何の賜物を受け取ったのかわからない場合は、おそらくそれは恵みの賜物だろう。あなたを清め、強め、用いられるようにするものだから、ある意味一番良いものだ。信仰をもって自分のものにしょう。

第六に、聖礼典である聖餐と洗礼によっても恵みをいただくことができる。

一つの勧めをして終わる。使徒13:43。これは良い勧めだ。一生涯、神の恵みの下、生き続けよう。神の恵みを慕い求めよう。神の恵みによって成長しよう。神の恵みに働いていただき、神の栄光を現すものとなろう。ハレルヤ!

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