主キリスト・イエスを知ることのすばらしさ[フィリピ3:1-9]

フィリピの信徒への手紙
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主イエス・キリストを知ることのすばらしさは、すべてのことを惜しむことをなくします。

主キリスト・イエスを知ることのすばらしさ[フィリピ3:1-9]

主キリスト・イエスを知ることのすばらしさ[フィリピ3:1-9]

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【ノート】
1節。パウロは主において喜びなさいと命じている。状況によっては喜べないこともある。交通事故を起こしてしまったとき、大きな病気にあったとき、最愛の人を亡くしたとき、その状況を喜べるか?その状況については喜べない。しかし、主においては常に喜ぶことができる。クリスチャンは主において、喜びの泉を持っている。あるクリスチャンは嵐の海で船が沈没しそうなときにも喜びをもって神を賛美し、あるクリスチャンは病気で亡くなるその日まで主においていつも喜び続け、あるクリスチャンは刑務所の中で回心を経験し死刑囚として処刑場に引いて行かれるその日にも顔から喜びが消えることはなかった。私たちは主においていつも喜んでいることができる。主が罪から救ってくださったこと、主が愛してくださっていること、主が共にいてくださることにおいて、喜びが爆発する。

しかし、その喜びを奪い去ろうとする不届き者がいる。その者たちについて、パウロは以前にもフィリピの信徒たちに手紙で警告していた。それらの手紙は現存しない。パウロは多くの手紙を書いたが、新約聖書に収録されている13巻の書簡だけが現存しているのだ。そこには神様の摂理があるだろう。パウロはここでもう一度同じことを警告しようとしている。それはフィリピの信徒たちの安全のため、信仰を守るためだ。私たちは重要なことを繰り返し語ることを恐れてはならないし、聞く方は繰り返し聞くことにうんざりしてはならない。聞く耳のある者は聞きなさいと主は言われる。人間は真新しいことに目が行きがちであるが、私たちは永遠に変わることのない真理によって救われている。そして、救いの真理をディボーションするなら常に新鮮な恵みをいただくことができる。主に慈しみは決して絶えない、主の憐れみは決して尽きない。それは朝毎に新たになる。あなたの真実はそれほど深いと哀歌3:22-23に書いてある通りだ。私たちの体を養うのは主食だ。ごはんやパンだ。舌が肥えている人はいろいろな珍味を味わってみたいと思うが、それでも主食は必ず食べる。同じように、霊の糧の主食も救いについてであり、福音である。

警戒すべきことは何か?2節。パウロの宣教の後について回り、パウロの宣教の成果を台無しにしようとする人々がいた。律法主義者のユダヤ人だ。彼らはキリストを信じて喜びにあふれている異邦人に対して、幾千もの律法とその施行細則をつきつけて、「キリストを信じるだけではだめだ。これらの規定を全部字義通りに守らなければならない。異邦人も割礼を受けて、ユダヤ人にならなければ救われない」と脅迫した。そうして救いの喜びを奪って果てしない宗教的な義務の履行を与え、律法による救いを説いてキリストの十字架の御業を無意味にしようとした。パウロは彼らのことを3つの表現で呼ぶ。

1.犬。「あの犬どもに注意しなさい。」犬を飼っている、飼ったことある?私たちにとって犬といえば、ペット。家族の一員のように大事にしていることもある。しかし、聖書では犬といえば、繰り返し昔の自分に戻り罪を犯すアイデンティティが汚れている人、天国にいけない人を象徴する。犬は自分の吐いたものに戻ると書いてあるし、イエス様も「神聖なものを犬に与えてはならない」と言われた。神様は犬が嫌いなのか!?そうではない。犬も被造物。当時は犬といえば、野良犬だった。誰に飼われることもなく、誰にでも吠えたりかみついたりする。そういう始末の負えない動物。律法主義者たちはよく異邦人のことを犬といって、軽蔑した。パウロはそういう律法主義者たちに対して、「異邦人の救いの邪魔をするあなたたちこそが犬だ!」という。

2.よこしまな働き手。ユダヤ人教師たちは自分たちが正義の味方であると確信していた。神が定めた律法を忠実に守ること、しかも細かい施行細則まで作って徹底的に守るように「義」を教えているのだから、当然だ。しかし、義はただ神の恵みによってのみ受けることができる。実際にはユダヤ人教師は人々を神に近づけるどころか、神から遠ざける働きをしていた。教師たちは自分が善を行っていると信じていたが、反対の悪を行っていた。私たちは善の働き手であると思っているときですら、悪の働き手になり得ること危険があることを覚えてへりくだっていなければならない。

3.切り傷に過ぎない割礼を持つ者。割礼というのは男性の包皮の部分を切り取ることであって、聖書では神との契約のしるしとしてアブラハムが受けたのを始まりとする。ユダヤ人の中には、肉体の割礼それ自体に十分な力があり、ほかには何も必要ないと思い込んでいる人がいた。自分は神と契約を結んでいる、自分は神と特別な関係にあると。実際には、割礼は神との契約を心に刻むべきところを肉体に象徴的に刻んでいるものだ。心の割礼こそ神が私たちに望んでおられることだ。それは旧約聖書にも書いてある。申命記10:16。30:6。単なる肉体の割礼は切り傷に過ぎない!そこには何の力もない。そればかりか自分の体を傷つけることは律法で禁じられている。真の割礼は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛し、私たちの人生を神にささげるようにするものだ。これは、教会で行われるすべての活動についてもいうことができる。水のバプテスマも、その人が心の底から罪を悔い改めてキリストと共に死んで、キリストを信じてキリストと共に新しい命に復活するものでなければ、単なる水浴びに過ぎない。水を浴びたければ教会ではなく市民プールに行けばいい!聖餐も、キリストと兄弟姉妹たちを愛して血潮と御体によって一つになるべく受けるのでなければ、ただの飲み食いだ。それなら礼拝の時間でなく交わりの時間にすればいい!奉仕も、その人がへりくだって神と人とを愛して仕えるために心を尽くして行うのでなければ、ただの自慢大会だ!それはどこかのサークルにいって行えばいい!賛美はただの合唱とバンド、祈りはできの悪いお芝居、礼拝全体は茶番、そこに命がなければ何にもならない。これらは神に心をささげるのでなければ何の意味もないばかりか、かえって神を欺き、自分自身をだましてしまう点で有害だ!私たちはそれらしい形式を整えることだけでは、神を喜ばすことができないということを心得ていなければならない。

3節。真の割礼を受けたのは律法主義者たちではなく、クリスチャンだ。クリスチャンには真の割礼を受けた者としての優れた特徴が3つある。
第一に、神の霊によって礼拝する。クリスチャンは大昔からある宗教的な儀式や慣例、規則の順守によってではなく、生ける神の霊である聖霊様を心にいただいて礼拝する。聖霊様は唯一神の極みまで知っておられるお方だ。聖霊様によらなければ人間は神を知ることができないが、クリスチャンは聖霊様によって神を知って、礼拝する。そして聖霊様はいつも離れずともにいてくださるので、人生のすべてを神への愛の表現とし、心と精神と思いを尽くして神にささげられた礼拝となる。
第二に、イエス・キリストだけを誇る。律法主義者は自分が律法を守っていることを誇る。神の御前ですらそれを誇る。「私はこんなに正しく律法を守っています!」クリスチャンは救いについても奉仕についても、自分については何も誇ることができない。私たちのうちには自分を救うものは何もないし、神の恵みなしに神に喜ばれる奉仕はありえないからだ。ひたすら恵みの源であり、私たちのために十字架の上ですべてを成し遂げてくださったイエス・キリストを誇る。
第三に、肉に頼らない。つまり肉体に受ける割礼のような、物質的、肉体的、形式的、外面的事柄に頼らない。洗礼や聖餐、祈ること、聖書を読むことは恵みを受けるための手段として有益だが、私たちはそれらの行い自体には頼らない。それらを通して恵みを与えてくださる神とイエス・キリストを頼りにする。

パウロは律法主義者たちを退け、クリスチャンこそが真の割礼を受けた契約の民だという。しかし、律法主義者はこう反論するかもしれない。「あなたはクリスチャンだからそういうのだ。私たちが教えていることを知らないのではないか」そんなことはない。実はパウロほど律法主義の道に熱心に励んでいた人はいない。パウロは行くところまで行った人なのだ。もしユダヤ人教師たちがいうように律法の実践によって救いがあるなら、パウロこそがそう主張できる最有力候補だった。4-6節では、パウロがどこまで徹底的にユダヤ教の宗教的行いによる救いに挑戦してみたか。4節、パウロは律法主義を説くユダヤ人たち以上に、肉によって誇ることができた人だ。

5-6節によって、パウロが律法主義について意見する資格のある人であることがわかる。パウロはもともとその道の専門家であって、知らないことについてでたらめに語るコメンテーターと違って、権威をもって語ることのできる人だった。パウロは生まれて八日目に割礼を受けた。生まれて八日目の割礼はアブラハムに命じられたことであり、律法でも規定されている。このことからパウロは途中でユダヤ教に改宗した人ではなく、親がユダヤ教徒であり、生まれたときから律法の命じるところに忠実に従う人々に育てられてきたことがわかる。パウロはイスラエルの民であり、ベニヤミン族の出身。バビロン捕囚から帰還した人々の中には、自分の家系がイスラエルの民に属するのかわからなくなった人々がいた。彼らは祭司職につくことが禁じられた。それに対して、パウロは由緒正しい純血のイスラエル人であり、自分の家系について、アブラハムまで遡ることができた。そして、ベニヤミン族はイスラエルの十二部族の中でも名門だ。ベニヤミン族はえり抜きの軍隊を持ち、最初の王サウルを輩出し、イスラエルが南北に分裂したときも南ユダ王国に属したので、北イスラエルに属した十部族のように金の子牛を崇拝することがなかった。また、パウロはヘブライ人の中のヘブライ人だった。ヘブライ人とは、ヘブライ語を話す人々のことだ。ユダヤ人は全世界に離散していた。彼らはそれぞれの地方でも神の民としての独自性を保っていたが、ヘブライ語を苦労して習得することを怠ってしまい、ヘブライ語を話すことができないユダヤ人もいた。しかし、パウロはタルソスで生まれたにもかかわらず、エルサレムで留学し、ヘブライ語を習得していた。それで、エルサレムで暴徒たちに囲まれたときにも、パウロはヘブライ語で語りかけることができた。パウロは律法に関してはファリサイ派の一員だった。ファリサイ派はユダヤ人の中でも最も厳格に律法を順守しようとした派閥で、6000人くらいしか存在しなかった。ファリサイというのは分離されたものという意味。世俗的な人々と自分たちとは違うのだと自負するほど、律法を守ることにファリサイ派は徹底していた。パウロは熱心さの点では教会の迫害者だった。熱心さは神に仕える者に要求される性質の一つだ。イスラエルが荒れ野にいたとき、一部の人々がミディアンとモアブの女性に誘惑されて性的な関係を持ち、彼女たちの神々を拝むようになってしまった。その罪によってイスラエルは神からの災害にあっていた。祭司長アロンの孫で、エリエゼルの息子にあたるピネハスは神への熱心さから槍をとり、罪を犯した男女を突き刺したことで災害が収まった。パウロは同じ熱心さからイエスを神と仰ぎ神を冒涜していると思われたクリスチャンとその教会を迫害した。そして、パウロはファリサイ派に属していただけでなく、律法の義、個人的な生活での律法の実践についても非の打ち所がなかった。

パウロには権威をもって律法について語る資格がある!そのパウロが言う。7節。権威者は言う、キリストを信じたことによって、律法主義において有利だった点は、損失となった。クリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっている途上、突然天からの光に打たれて、パウロはイエス・キリストと出会った。クリスチャンになってみれば、律法主義者が頼りにできることは、マイナス点でしかない。律法は神に近づく上で全く役に立たない。そして、汚れた人間が自分の生まれの立派さ、自分なりの行いの立派さを強調することは愚かなことであり、勘違いであり、とんでもない高慢の罪だ。キリストの恵みのすばらしさ、完全さ以外にクリスチャンが頼れるものはない。それがクリスチャンになったときにパウロに与えられた変化だ。パウロがキリストを信じて変わったのは、ショッキングな出来事による衝動的な、早まった選択というわけではない。なぜなら、8節、そのキリストによる変化は現在進行形であり、クリスチャンになったときよりも一層顕著になったからだ。信仰というのはいま、どういう状態であるかということが大事だ。その昔、私たちはイエス・キリストと衝撃的な出会いをして涙を流して悔い改めてすべてのものを捨ててキリストに従う決心をした。しかし、いまは気が変わって自分が捨てたものを全部拾い集めた、では全然話にならない。私たちのいまの信仰はキリストを信じたばかりのころよりももっと成長していてしかるべきだ。

パウロはそうだった。パウロは律法主義者として有利なことだけでなく、今やすべてのことすらもキリストの無限の価値に比べたら損失とみなすようになった。パウロがクリスチャンになったばかりのころよりも、もっとすべてのものを無価値に思うようになった理由は、クリスチャン生活の中で、イエス・キリストをより深く知ったからだ。最も価値あることは、イエス・キリストを知ることだ。ここでいう知るという言葉は知識として知るということではない。旧約聖書で「アダムは妻エバを知った」というふうに、性的な関係、相手とのこの上ない深い交わりについて「知る」という言葉が使われているが、ここでもそういう意味でイエス・キリストを知ることはすばらしいのだ。私たちは知識的にキリスト「について」知るのではなく、人格的にキリスト「を」知る。何かの事実を知っているとか、理論や神学に関する知識ではない。キリストの人格を知る知識だ。クリスチャンとしてイエス・キリストを知る歩みを続けるなら、私たちにとってもイエス・キリストを知ることがすべてとなるだろう。

パウロはクリスチャンになったことで、律法主義者がステータスとすることをすべて失ったが、それを「塵あくた」とみなしている。塵あくたというのは、原語では排泄物という意味だ。これがないとダメ、これは絶対に手放せないと大事にしていたものが実は排泄物!!ウェ!クリスチャンは世的なものを手放すとき、未練がましく手放すのではなく、躊躇なく手放す。もうそれが無価値で、むしろ汚いものだと知っているからだ。

律法の義が排泄物。それでは、どのような義によってパウロは救われたのか?信仰による義だ。9節は信仰による義について。義は神の水準の完全な正しさのことであり、義には神との正しい関係に入ることという意味が含まれる。義は努力によって獲得するのではなく、神から恵みにより信仰によって一方的に与えられるものだ。信仰によって義とされた人は、正しくなくても神から正しい者とみなされる。神は裁判の時にその人にどれだけ多くの罪があったとしても無罪判決をくだされる。人はただイエス・キリストへの信仰によってのみ救われる。
私たちの中にも、律法主義の誘惑を受ける人がいるかもしれない。ユダヤ人のように、割礼を受けて律法を全部守られなければ救われないと信じる人はいないだろうが、「救われるためには自分の行いも必要だ」というのはもっともらしく聞こえる人こともあるだろう。
しかし、聖書のここに自分の行いによる救いにどこまでもストイックに挑戦したことがあり、その上でイエス・キリストへの信仰によって救われた人がいる。そして、彼が言う。「私がしたのは無駄な努力だった。自分の義は排泄物だ。自分の義によっては神が認める完全な生き方をして、神との正しい関係に至ることは不可能だ。イエス・キリストにしか答えがない!私はイエス・キリストを信じることによって神との交わりを見出した。それでほかの一切にものが少しも惜しくなくなった」私たちも迷ってはいけない。信仰によって与えられる義によって救われ、イエス・キリストを知る道をひた走ろう。

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