落胆してはならない

福音&主題メッセージ
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神様は聖書全体を通して私たちが落胆失望してしまわないように励まし続けておられます(^^)/

落胆してはならない

落胆してはならない(再アップロード)

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【ノート】
私たちに大きなダメージを与えるのは、落胆、失望だ。がっかりすること、それは私たちの心を暗くし、やる気をくじき、物事を放棄してしまう原因となる。人はどういうときに落胆しやすいのか?それは期待を裏切られたときだ。信じて、きっとうまくいくと思っていたときに、うまくいかなかったときだ。落胆しないようにするためにはどうすればいいのか?一つの考えとしては、最初から期待しなければいい。信じて期待しなければ、落胆する心配はない。人間に対してはそうだろう。あまり人に期待しすぎても人間は真実ではないから、裏切られることもある。また、過度に期待をかけられる方もプレッシャーを感じるだろう。また、人間以外の物事についても、私たちのコントロールの及ばないことについては、うまくいかないことはたくさんある。期待をしてもその通りにはいかないということを想定内としていなければならない。しかし、信仰者は神に対しては期待しないわけにはいかない。信仰は神を信じて期待するものだからだ。そして、私たちが主を信じなら、失望することは決してない。ローマ10:11。主を信じる者は、だれも失望することはない。例外なくみな失望しないのだ。なぜなら、主は真実な方であり、約束を必ず守られるからだ。Ⅱテモテ2:13。あなたは主を信じているか?もしそうであれば、あなたは決して失望することはない。主は私たちに言われる。私を信じなさい。落胆してはならないと。そのように言って私たちの信仰を励ましてくださる。

そのような御言葉は聖書全体で見出すことができる。聖書全体は預言者たちを通して語られた神からの預言の言葉だ。預言者の預言にはどんな効果があるのか?使徒15:31。預言者であったユダとシラスは預言の言葉によって、兄弟たちを励まし、力づけた。預言は私たちを励まし、力づけるものだ。聖書全体を通して、神は私たちを励まし、力づけようとしておられる。主は私たちの心が弱くてなかなか定まらないことをご存知なので、繰り返し力ある御言葉によって私たちの心を強めてくださる。主は私たちがたびたび落胆失望するからこそ、励ましてくださる。主は私たちに言われる。落胆してはならない。その御言葉によって私たちは落胆し、心が折れそうなときにも再起することができる。主は私たちに励ましを与え、なぜ落胆してはならないのか説明してくださる。その主の励ましの御言葉を聞いてみよう。

第一に、祈りは答えられるから落胆してはならない。多くの人が落胆するのは、祈りが答えられないという場面に直面したときだ。祈ったのに、期待した通りのものが得られないとき、落胆する。イエス様は祈りが答えられないことで気を落としそうなときにどうすれば、いいのかを説明してくださった。ルカ18:1-8。多くの人は「祈りが聞かれない!」と思うから落胆する。そういう人に対してイエス様は「祈りは聞かれないこともあるよ」とは言われない。イエス様の答えは「祈りは聞かれるから絶えず祈り続けなさいだ」。神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちを放っておくことは決してない!問題は途中で「この祈りは答えられなかった」と思い込んで落胆してしまい、祈ることをやめてしまうことだ。それが間違いなのだ。もちろん全然御心に適わないことを祈っているのであれば答えられないこともあるだろう。しかし、あなたがイエス様に従っている弟子であり、神の御言葉に基づいて祈り求めているのであれば、どんな形であれその祈りは答えられる。私たちが指定したとき、想定した通り、ではないとしても神がご存知の最善の時期、最高の形で祈りは答えられる。私たちが落胆すると、その薄い信仰を見てイエス様を落胆させてしまう。8節。イエス様は御自分の再臨のときに、熱心に祈る信仰者をほとんど見いだせないのではないかと言われた。それは再臨に近い時期にいる私たちのことかもしれない。多くの場合、私たちは落胆する資格のあるほど、熱心に祈っていない。昼も夜も叫び求めているわけではない。神は私たちに、御自分に対する絶対的な信仰を求めておられる。簡単に神を疑うのではなく、ちゃんと信じることを求めておられる。求めるものを得るべく熱烈に祈る者となることを求めておられる。落胆せずに絶えず祈り続ける者となろう。アーメン!
第二に、報いがあるから落胆してはならない。多くの人が落胆するのは、報いられなかったときだ。努力が報われなかったとき、多くの時間、多くの犠牲を払ってきたことが無駄だったとき、人は落胆しがちだ。確かに報いがないということはありうる。しかし、主の御言葉は何と語っているか?歴代誌下15:2-7。ここで、「必ず報いがある」と約束されている。主と共にいる人の行いには必ず報いがある。主のためにすることには必ず報いがある。主にささげたことは何一つ無駄になることはないのだ。具体的にどんな報いが得られるのか?アサ王についていえば、それは敵からの守り、健康、経済的な祝福という形で現れた。それでは、そういう具体的な報いをいただけているように見えない場合はどうなのか?それはもっと喜ばしいことだ!実は、イエス様はこの地で報いを受けることは残念なことだと語っておられる。マタイ6:2。偽善者たちは人からほめられるために大勢の人がいる前で良いことをした。イエス様は「彼らは既に報いを受けている」と言われた。イエス様はそれを否定的なニュアンスで言われた。では、この地で既に報いを受けるよりも良いことは何か?マタイ6:1。天の父のもとで報いを受けることだ。それは決してなくなることのない報いだ。私たちはこの地では一時的にしか生きられない、寄留者であり、仮住まいの身であるが、天国は私たちの本国。私たちは天国では永遠に生きられる。天国での永遠の報いの方がこの地での報いよりもはるかによい!使徒パウロは、自分の報酬はこの地で報酬を受け取らないことだといった。第1コリント9:18。パウロは無報酬で宣教したことによって、天の報いが豊かに与えられることを期待したのだ。私たちは決して落胆する必要はないのだ。この地で報いられたら、それは感謝なこととして受け取ろう。この地で報いられなかったら、それはなおさら喜ばしい!天の報いが待っているからだ。それを期待してわくわくしながら過ごすのだ。どちらにせよ、主にささげたことには必ず報いはある!ハレルヤ!

第三に、福音の光が与えられているから落胆してはならない。第二コリント4章でパウロは二回も私たちは落胆しません!と宣言している。なぜ落胆しないのか。何について落胆しないのか。Ⅱコリント4:6-7。私たちの体は神によって造られたが、体はいってみれば土の器だ。土の器はもろい。もし土の器しかもっていない人であれば、土の器が傷つくと落胆する。体は老化する。若いときと比べると美しくなくなっていくし、太りやすくなるし、思い通りに動かなくなるし、あちこち病気になるし、記憶力も落ちていく、そしてゆっくりと死に近づいていく。体は敵から攻撃を受けるとダメージを受けるし、その傷は長く残る。場合によって死んでしまう。土の器がすべての人は大きな病気や障害を負うと落胆するし、そうでなくても年を取るだけで落胆は避けられない。しかし、パウロはこういうことを全部経験しながらも落胆しなかった。パウロも年を取ったし、迫害者からの外傷が体中にあったし、眼病や癲癇を患っていたという説もある。それでも落胆なかった。それは、土の器の中に宝が入っていたからだ。神が私たちに与えてくださった福音の光という宝だ!福音の光は私たちに悟りを与える光。福音の光は、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟らせてくださる。イエス・キリストが救い主であってどれだけ栄光に満ちた方であるかを悟るのだ。福音の光は、やがて土の器が滅んでも、イエス様が復活されたように、栄光の器に復活できるということを悟らせる。さらに福音の光によって、たとえ外なる人、つまり土の器である肉体が衰えても、内なる人、つまりキリストによって贖われた私たちの霊は日々新たにされていくことを悟る。私たちの霊は聖霊様との交わりによってリフレッシュされ続け、キリストに似た者へと変えられ続ける。外なる人は下り坂であっても、内なる人は成長し続けるのだ!そして外なる人は朽ちるが、内なる人は天国までもっていけるので、私たちは外なる人ではなく、内なる人にもっと注目するべきだ。そして福音の光によって、すべての患難は永遠の栄光につながるものであることを私たちは直感することができる。Ⅱコリント4:16-17。年を重ねれば重ねるほど、私たちは永遠の栄光が近いことを喜ぶことができる。私たちはこのような宝をいただいている!だから、落胆はしない!ハレルヤ!

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