もう我慢できない![Ⅰテサロニケ3章]

テサロニケの信徒への手紙一
スポンサーリンク

パウロはテサロニケの信徒たちのことが気がかりでとうとう何もアクションをとらないことを我慢できなくなりました!
※インターネット礼拝のメッセージだけを切り抜いたものです。
※写真はアレクサンドロス大王のコインを中央に描いた市の旗です。

もう我慢できない![Ⅰテサロニケ3章]

もう我慢できない![Ⅰテサロニケ3章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
1-5節。テモテを派遣した理由の説明。パウロの心はテサロニケの信徒たちと離れておらず、祈りによる交わりをすることができた。しかし、心が離れていないで、日々祈っているからこそ、次第にテサロニケの信徒たちのために何かをせずにはいられなくなった。パウロはテサロニケの信徒たちの信仰がなくなってしまうかもしれないと心配していた。自分の手による仕事は、仕上げれば「あとはどうなるか知らん」と無関心でいることはできない。自分の手によって仕上げ、世に出された仕事の成果がどうなるかという点はどうしても気になるものだ。それが学術論文であれ、小説であれ、音楽であれ、何等かの製品やサービスであれ、自分が力を注いだものが、果たして世からどう評価されるのか?知りたい。それが受け入れられるのか、相手にされないのか、長く用いられるのか、はたまたすぐに廃れてしまうのか。もしそれが世に出てすぐに死んでしまうのであれば、せっかく力を注いだ仕事が無駄になってしまう。ましてやパウロの働きの成果は全宇宙よりも貴い人間の霊的な命だ。イエス・キリストのもとに導いたから、「あとはどうなると知ったことではない」ですますことはできない。テサロニケの信徒たちの信仰がなくなってしまったら、それはパウロが愛する者の死を意味することであり、イエス・キリストの再臨のときの誇るべき冠を失ってしまう。だから、パウロはテサロニケを去った後もずっと、テサロニケの信徒たちの信仰が生きているかどうかに強い関心を持ち、祈り続けた。たった三週間牧会した教会の信徒たちに対して、パウロはそこまでの気遣いを持っていた。そのような気遣いはあなたの親や牧師や教師たちにもみられるものだろう。さらに、そのような気遣いは天からも注がれている。父なる神は今日もあなたの髪の毛一本残らず数えておられる勢いであなたを気遣っておられる。イエス・キリストは全能の父なる神の右の座で今日もあなたのために執り成しておられる。天にも地にもあなたの霊的な命が保たれるように気遣ってくださる存在がいることを感謝しよう。
そして、とうとう祈る以外に何も手を打たない状況に我慢できなくなり、3人のうち、パウロとシラスはアテネに残り、テモテをテサロニケに派遣することにした。それは単にテサロニケの状況を知るためだけでなく、苦難にあってテサロニケの信徒たちの信仰がくじけそうになっているかもしれないので、励まし、信仰を強め、苦難に耐えられるようにするためだった。3節で「だれ一人動揺することのないようにするため」とある。動揺するというのは、主から離れて信仰を捨てるという意味。牧会者は、どれだけ多くの人が教会にいても、一人が信仰を捨ててしまう人と心が引き裂かれる。主なる神はなおさらだ。一人でも、信仰を失ってしまうことは神の御心ではない!
パウロたちの目的は自分の霊の子たちの失敗やつまずきについて、非難したり罰を与えたりすることではない。もし弱っているのであれば助けてあげることだ。アテネでの宣教活動を考えると、テモテを送ることは大きな犠牲だった。しかし、テサロニケの信徒たちへの愛と彼らの信仰を励ましたいというパウロたちの熱意は、自分たちの不利益を一切顧みない行動となって示された。
パウロがテサロニケの信徒たちの心配をしたのは当然のことだった。クリスチャンになっても信仰が揺らいでしまう人はいる。パウロもそういう人を見てきただろう。あなたの知っている兄弟姉妹たちの信仰は、みな生きているか。あなたの助けを必要としていないだろうか。もし長く会っていない、話していない人がいれば、久しぶりに連絡してみてはどうか?互いにほかの人が元気か気遣い、信仰を励まし合い、イエス・キリストの日に確実に再会を果たすことのできる私たちになろう。アーメン。
3-4節で、パウロはクリスチャンが「苦難を受けるように定められている」と断言し、テサロニケにいたときも「やがて苦難に遭うことを、何度も予告」したという。「苦難を受ける!」これはあまりありがたくない教えだ。だれだって苦しみは避けたい。苦難を受けるように定められているなんて言ったらクリスチャンになるのを躊躇してしまいそうなものだ。しかし、パウロはこれも真理なので、隠すことなく教えていた。実際に教会史は迫害の歴史だ。神はクリスチャンに苦難を約束しておられる。それはイエス・キリストを通して与えられる恵みと平和があまりに大きいので、どんなに苦難に耐えられるからだ。
たやすい道が好ましい道とは限らない。だれが簡単なミッションばかり与えられて満足するだろうか?私たちは苦しくても、その先に約束されている栄光を見据えて、あえて困難な道に挑戦したいものだ。そして、テサロニケの信徒たちはイエス・キリストの再臨のときに与えられる栄光を見据えて苦難に耐え抜くことができた。苦難は、それに備える信仰者にとって、信仰を捨てるきっかけではなく、信仰を強めるきっかけとなるのだ。しかし、もしパウロが神の真理を教えることではなく、人気取りに走り、「クリスチャンになればひたすら祝福され、繁栄し、成功する!」と教えていたらどうなっていただろうか?迫害に直面したテサロニケ教会はたちまち瓦解していただろう。神の真理に基づく働きでなければ、一時的には栄えるように見えても、試みのときにすべては無駄になってしまう。
6-10節はテモテが持ち帰ってきた報告について。パウロとシラスはその報告をコリントで聞いた。それは良い知らせだった!まず、使徒たちの予想をはるかに超えて、テサロニケの信徒たちは信仰と愛にしっかり立っていた。誰がテサロニケの信徒たちを支えていたのか?それは神だ!使徒たちの心配をよそに、神がテサロニケの信徒たちを守り、成長させていた。私たちの体は一つしかなく、強く望んでいたとしても、どうしても同時にあちこちで奉仕をすることはできない。どうしても手の届かないところは、同時にありとあらゆる人に臨在することがおできなる神におゆだねしよう。イエス・キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われる。そして、テサロニケの信徒たちも、好意をもってパウロたちのことを覚えていて、しきりに会いたがっていた。クリスチャンはまだ会ったことのない人とも心により交わりをすることができる。しかし、真実の愛はいつも顔と顔を合わせての交わりを求める。それはキリストの再臨のときにイエス・キリストと顔と顔を合わせて交わりことになることを求めるのと同じだ。7節、パウロたちは大いに励まされた。教会の指導者と信徒の交わりというのは、一方的に指導者が信徒を励ますというものではない。指導者側も、信徒が信仰に堅く立っているのを見ると励まされる。そのように相互に励まし合うことが、すべてのクリスチャンの関係の中で生じうる。私たちの信仰がしっかりしていることを通して、あらゆるクリスチャンたちを励ますことができるようになろう!アーメン。使徒パウロは強靭な信仰を持つ使徒だった。その信仰はただ神との交わりの中でのみ強められたのではない。ほかの多くのクリスチャンの存在も、パウロには必要だった。テサロニケの信徒たちの信仰がパウロにとってどのくらい大事だったのか?8節。テサロニケの信徒たちがイエス・キリストにしっかりと結ばれていることがパウロに生きる意味と目的を与えていたほどだ。もし、そうでないならパウロは生きる意味と目的を失ってしまうほどだ。パウロはこみあげてくる喜びをおさえきれずに、9節で「この大きな喜びに対して、どのように感謝を神にささげたらよいでしょう」と困ってしまった。喜びが大きすぎてそれに見合う神への感謝の表現方法が見つからなかったのだ。10節。パウロロは再会を果たすこととテサロニケの信徒たちの信仰を補いたいと夜も昼も一日中切に祈った。テサロニケの信徒たちの信仰と愛はすばらしいものだったが、そこには、パウロによって補われなければならない部分があった。できれば顔を合わせて補いたいが、それがすぐに実現できそうにないので、4章と5章が信徒たちの信仰を補う内容となっている。いまの時代、私たちはパウロの時代よりもはるかに短時間で長距離を移動できるし、SkypeやLineなど、顔を見ながら会話するためのツールが多く存在する。顔と顔を合わせての交わりがしやすい環境にあることを神に感謝しよう。私たちはその気になりさえすれば、多くの兄弟姉妹たちを励まし、はたまた兄弟姉妹たちからの励ましを受けることもできる。
11-13節はパウロの祈り。祈り求める内容は大きく3つにわかれる。第一にテサロニケへの再訪問の道が開かれるように。11節。テモテからの報告を聞いてひとまず安心したパウロだが、再訪問を決してあきらめない。パウロのこの祈りは答えられたと思うか?テサロニケに再訪問できたと思うか?再訪問を邪魔していたのはサタンだ。しかし、神と主イエスはサタンよりもはるかに強いので、いつか祈りは答えられ、道は開かれる。使徒20:1-3。間違いなくここでテサロニケ教会を再訪問できた。サタンはクリスチャンを分断することはできない!私たちの主は強いお方!ハレルヤ!
その後も、テサロニケ教会はいつもパウロと共にあった。使徒言行録やパウロ書簡を見ると、テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコなる人物が何度も登場する。アリスタルコはテサロニケ教会の代表者としてパウロに同行していたのだ。エフェソで銀細工師デメトリオがパウロに反対して騒動を起こしたとき、アリスタルコはパウロの同行者として目立っていたので、とらえられてひどい目にあった。パウロが裁判を受けるためにローマ行きの船に乗ったときにも、アリスタルコはそこにいた。そして、ローマの獄中でもアリスタルコはパウロと共にいたのだ。迫害を耐え抜いたテサロニケ教会の代表者はパウロと苦しみを共にすることを少しも厭わない信仰の勇者だった。テサロニケ教会はパウロと共にあった。

第二に、テサロニケの信徒たちが互いの愛とすべての人への愛とで満ちあふれるように。苦難は教会に、平時よりも一層特別な愛の結束を生み出す。しかし、そうでないケースもある。苦難に耐えるのが精いっぱいのみじめなクリスチャンになったり、信仰の弱い人を裁いたりしだすこともある。心にゆとりを与えないほど厳しい状況に陥るとあつれきを生みやすくなる。また、迫害者を憎むことが正当化されうる。そうならないようにお互いの愛が豊かに満ち溢れることを祈った。この祈りは答えられただろう。テサロニケの信徒たちは愛の労苦をする者となっていた。さらに、愛の対象はお互いだけでなく、すべての人でもある。そこには偶像崇拝者や迫害者も含まれる。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエス様が言われたことを実践するのだ。

第三に、キリストの再臨にあたって聖められるように祈る。パウロはここでテサロニケの信徒たちがキリストの再臨のときまで生きていることを前提に祈っている。キリストの再臨は非常に差し迫ったものだと信じられていたのだ。しかし、2000年後を生きる私たちは、キリストの再臨はまだまだ先であるということを知っている。使徒たちやテサロニケの信徒たちの中で、キリストの再臨まで生きている人は誰もいなかった。彼らの信仰は間違っていたのか?熱狂的過ぎたのか?預言の言葉を間違って解釈していたのか?そうではない。私たちはいつだってキリストの再臨が差し迫ったものであると信じるべきだ。イエス・キリストは私たちに対して、御自分がいつ再臨するかわからないのだから、御自分がいつ来てもいいように目を覚ましていなさいと告げておられる。私たちは使徒たちやテサロニケの信徒たちのことを「予想がはずれた」と馬鹿にするのではなく、再臨に備えて目を覚ましていた模範的な信仰者として見なければならない。私たちこそ、彼らに見習って再臨に備えてもっと気を引き締めなければならないのだ。
テサロニケの信徒たちは生き生きとして信仰をもっていたが、まだ信仰の歩みは途中であって、非の打ち所がない完全な者にはなっていなかった。完全な者になるのは神への祈りなしにはありえない。イエス・キリストは徴税人や罪人と共に食卓につかれたが、かの日には、栄光に輝いて御自分に属するすべての聖なる者たちと共に来られる。そこには使徒たちやテサロニケの信徒たちを含めて、先に召された信仰者がみな白い衣を着てそこにいるのだ。使徒たちとテサロニケの信徒たちの予想に反して、彼らは聖なる者たちに迎えられるのではなく、逆に携挙されるクリスチャンを迎える側になった。そして、迎える側か迎えられる側かはわからないが、私たちもその聖なる者たちの中に加わることになる。そして私たちが立つことになるのは、父なる神の御前だ。私たちを完全に聖なる方の御前に立つにふさわしい者としてくださるのは誰か。私たちの主イエスだ。主イエスが私たちを聖なる、非の打ち所がない者とならせてくださる。再臨に向けて、イエス・キリストによって清められ、神の御前に立つのを備える者となろう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋では教会と聖書勉強会の集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/t
i/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました