喜びの手紙[フィリピ1:1-2]

フィリピの信徒への手紙
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パウロは牢屋の中で喜びにあふれて手紙を書きました(≧∇≦)

喜びの手紙[フィリピ1:1-2]

喜びの手紙[フィリピ1:1-2]

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【ノート】
フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれる。そこには喜びという言葉が16回も登場する。その喜びをもたらしたものは何か?それはイエス・キリストの十字架による救い、つまり福音だ。福音という言葉も喜びについで多く、9回用いられている。福音は私たちの心に大きな喜びをもたらす!フィリピの信徒への手紙を書いたのはパウロだ。パウロがフィリピの教会の信徒にあてた手紙。この手紙は紀元63年ごろにローマの獄中、つまり牢屋の中で書かれた。牢屋の中の人が喜びに満たされて手紙を書いていたのだ!イエス・キリストの福音による喜びは環境や状況を超越している!いや、むしろ外面的に苦しい状況であればあるほど、ますます福音にある喜びは増し加わる!
フィリピはどこか?フィリピはギリシア北部のマケドニア地方にある。フィリピの周辺では金や銀の鉱山があった。それらはキリストの来られることにはとっくに枯渇してしまったが、フィリピを商業の中心地にする要因となった。紀元前358年にマケドニアの王でアレクサンドロス大王のお父さんであるフィリッポス二世がこの町を占領、拡張して、自分の名前にちなんでフィリピと名付けた。フィリッポス二世がフィリピに目をつけたのは軍事的に重要な場所だったからだ。アジアとヨーロッパを東と西に区分する丘陵地帯がある。それがちょうどフィリピのあたりで山道をくだるようになっていた。フィリピはアジアとヨーロッパを陸路で行き来するためにどうしても通らねばならない交通の要衝。紀元前42年にのちに初代ローマ皇帝アウグストゥスとなるオクタヴィアヌスとアントニウスがブルータスとカッシウスを破った戦いもフィリピで行われた。その勝利を記念して、フィリピはローマの植民都市になった。植民というと搾取されるイメージがあるかもしれないが、そうではない。植民都市は世界のあこがれだったローマの一部だ。植民都市に駐屯する兵士たちにはローマ市民権が与えられた。ローマ市民権の威力はすさまじい。パウロが困ったときの切り札としてフィリピでも「わたしはローマ帝国の市民です」というとパウロを懲らしめた人々が「ローマ市民権を持つ者にひどいことをしてしまった!」とふるえあがった。「ローマ」という言葉が持つ力が世界を支配していた。植民都市では、ローマの言語が話され、ローマの称号をもち、ローマの習慣にならい、ローマで行われる儀式が執行された。植民都市では、その場所がどこであろうと、自分たちがローマ人であることを誇りに思った。それと同じように、私たちも地上のどこに置かれてもクリスチャンであることを誇りに思おう。フィリピ3:20。私たちはローマよりも偉大な天にあるキリストの王国に本籍を持つ。ハレルヤ!
フィリピ教会はパウロによって開拓された教会だ。しかしパウロは、フィリピに行くつもりはなかった。パウロをフィリピに導いたのは神だ。パウロははじめ、アジアを中心に宣教するつもりだった。ところが、紀元52年ごろ、パウロは第二回宣教旅行をしている中で、マケドニア人の幻を見た。使徒16:9。幻では、文化文明の最先端を行くヨーロッパ人が声高に救いを求めて叫んだ。福音が必要なのはどこか遠くにある発展途上国ばかりではない。救いはすべての人に必要だ。日本人も言葉にならない心の悲鳴をあげて救いを求めている人々が大勢いる。そういう人々に福音が届くようにすることが神の御心だ。フィリピではユダヤ人のコミュニティは小さく、会堂がなく、安息日には会堂の代わりに「祈りの場所」として川岸で礼拝がもたれていた。フィリピでは、その祈りの場所でリディアとその家族が救われ、さらにフィリピの刑務所の看守とその家族が救われた。こうして、ヨーロッパ最初の教会が誕生した。
パウロはフィリピの信徒たちと個人的に親しく交わりを続けており、彼らを心から信頼していた。パウロは基本的に自分で生活費を稼いで宣教していた。フィリピ教会だけはパウロがテサロニケにいたときも、コリントにいたときも、パウロを経済的に援助した。この手紙が書かれたきっかけも、フィリピの信徒たちがローマの獄中にあるパウロのために献金を集めてエパフロディトに託して届けたことだ。パウロは献金に対する感謝の手紙を書いてエパフロディトに渡した。フィリピの信徒への手紙は、親密なフィリピの信徒たちに対するパウロの個人的な書簡である。
手紙の冒頭の言葉は短いが、差出人の人となりや手紙を書いた背景が伝わってくる。パウロは当時のギリシアの手紙の形式に従って、書き始めている。まず差出人、それから受取人、そのあと挨拶の言葉だ。

1節。差出人。「キリスト・イエスの僕」。これがパウロの肩書き。ふつう肩書というのは、社長、教授、長官といった偉そうなもの、かっこよいものをつける。パウロもそういう肩書を使うことはあった。ほかの手紙ではたいてい「使徒」という点が強調されている。たとえばローマ1:1。使徒というのはイエス・キリストが直接選んで遣わした者だ。そこにはキリストの権威がある。パウロはほかの教会の人々には、自分に与えられているキリストからの権威を認め、神からの言葉として自分の話に耳を傾けなければならないことを肩書によって示している。
しかし、フィリピの信徒たちに対しては「使徒」と名乗っていない。それは、パウロとフィリピの信徒たちの間にもともと深い信頼関係があったからだ。「使徒」とあえて強調しなくても、フィリピの信徒たちはパウロを使徒として尊敬していたし、パウロの言葉に喜んで耳を傾けた。そこで、使徒の代わりに使われた肩書が「キリスト・イエスの僕」だ。「僕」という言葉は原語のギリシア語でドューロス。奴隷という意味。奴隷!こんな肩書の人を見たことがあるか?名刺を見たらに「奴隷」と書いてある!幸いにも、「奴隷」という肩書に私たちはなじみがない。奴隷制度は聖書をにぎりしめたクリスチャンのリーダーの活躍によって多くの社会から消滅した。私たちはその恩恵にあずかっていることを感謝しよう。私たちにとってあまりなじみのない奴隷という肩書がどういうものか考えよう。給料をもらって働く雇人、使用人、従業員という意味合いであれば、ドューロスではない別のギリシア語が使われる。雇人や従業員は自分の意思で自由に働くのをやめたり、ほかの主人に仕えたりすることができるが、ドューロスはやめることができない。ドューロスは一生主人の所有されている奴隷だ。ドューロスは縛る、束縛するという意味の言葉からできたもので、永遠に縛られて生きる。パウロはイエス・キリストの奴隷だと名乗った。これは第一に、パウロがイエス・キリストに永遠に所有されているということ。かつて、パウロは罪の奴隷だった。キリストが愛してくださり、御自分の命を代価として払って買い取ってくださったので、キリストのものとなった。イエス・キリストの僕はキリストの愛によって永遠にとらわれている。第二に、パウロはイエス・キリストに絶対服従する。奴隷は自分の意思を持たない。主人の意思が奴隷の意思だ。だから、パウロはキリスト以外の意思を持たず、ただただキリストに服従する気持ちしか持たない。第三に、主の奴隷になることは最高の栄誉だ。かつて、偉大な信仰の先人たちであるモーセ、ヨシュア、ダビデは神のしもべと呼ばれた。神に奴隷として仕えることは、この世にあっては王者に等しいのだ。クリスチャンがキリストの奴隷になることはへつらい、卑屈さ、屈辱といったものからかけ離れている!それはこの手紙にある通り大きな喜びだ。
「パウロとテモテ」と連名で手紙を書いている。テモテはパウロが第二次宣教旅行の途中で同行させた若いクリスチャンだ。パウロはテモテのことを自分の弟子という扱いにせず、一緒に福音に仕えてきた仲間として名前をあげた。パウロは「自分一人ですべてを成し遂げた」と誇らなかった。手紙を書くにあたってもほかの人の名前をちゃんと入れている。自分の功績や手柄の自慢ばかりするのは、イエス様の奴隷ではなくなってしまう。
受取人はフィリピにいる「聖なる者たち」「監督」「奉仕者」だ。すべてのクリスチャンは聖なる者。聖なる者が、敬虔で厳粛で心清らかで完全無欠な人たちというのを思い浮かべるのは間違い。「聖なる者たち」にはハギオスという言葉が使われているが、異なっているという意味。旧約聖書では、神の計画や目的のために他のものと異なって用いられるものを聖別されたものと呼んでいる。祭司、祭具、聖所など神への礼拝に用いられるものは、ほかのものと用途が異なっている点で聖別されたものだし、ユダヤ人は他の民と異なって、神のために用いられる特別な民族だった。
そして、クリスチャンも他の人々と異なっている。キリスト・イエスに結ばれているという点で異なっている。キリスト・イエスに結ばれているというのは、クリスチャンがキリストといつも一緒にいること、キリストとのたえざる交わりの中で生きていること、内側にも外側にもキリストの臨在と力に取り囲まれているということだ。クリスチャンはキリストにあって生きている点で他のすべての人々と異なる聖なる者たちなのだ。
監督と奉仕者は教会の役職だ。監督は、教会の説教や指導、運営を担う役職。奉仕者と書いてあるのは、別訳では執事で、教会の信徒たちのお世話をし、教会の経済や食事などについて奉仕をする役職。フィリピ教会は2つの家族から始まったが、開拓から10年を過ぎてこのような教会組織を持つようになるほどの教会へと成長した。

最後に挨拶。恵みと平和があるように。この挨拶はパウロの書簡に毎回出てくる。恵みはギリシア人が挨拶に用いる言葉であり、平和はヘブライ人が挨拶で用いる言葉だ。パウロはイエス・キリストにあって、2つの挨拶を一つにした。そして、新しい意味を挨拶に加えた。
恵みはギリシア語でカリス。ギリシア風の挨拶の言葉であって、カリスには直接的には喜び、楽しみ、やさしさ、美しさなどの意味がある。聖書では特に、恵みは、神様がただイエス・キリストの十字架を通して罪びとをゆるして救ってくださることによって示されている。イエス・キリストの恵みを通して父なる神を知ることができるようになった。そして、イエス・キリストを通して父なる神を知ることは大きな喜びをもたらす。
平和はヘブライ語ではシャローム。ヘブライ風の挨拶の言葉であって、人間関係や神との関係によってもたらされるものだ。平和は神との和解によって得られる。イエス・キリストによって罪がゆるされ、神と和解することによって与えられる平和ということだ。この平和は何者も奪うことができない。
恵みと平和、この2つはただ父なる神とイエス・キリストを通してのみ、与えられる。パウロは恵みと平和が、フィリピの人々の上にあるようにと祈っている。これは常に必要な祈り、普遍的な祈りだ。神は私たちにもこの恵みと平和を与えたいと願っておられる。だから、私もあなたの上に恵みと平和があるように祈る。

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